祖父の一周忌 ~古典風日記始めました~
祖父の一周忌
先週、祖父の一周忌があった。
丘陵の中腹にあるその寺院は、お世辞にもいい門構えとは言えないが、外の展望は美しかった。
空は*縹緲と蒼く澄み渡り、眼下には無数の*大廈高層の建築が聳え立つ。以前は海を眺めることもできたそうだが、今では無数の*混凝土に囲まれて、殆ど垣間見ることはできない。
猫の額ほどの大きさの本堂は、十数人程度の親戚が集まっただけで手狭なものになった。
床の一部が腐っているようで、歩くとミシミシと軋む音がし。柱には子供が描いたであろう、狸のような珍獣が顔を覗かせる。
壁には割れ目が走り、襖は建付けが悪いのか開閉するのに難儀する。
人間に非ざるものが住んでいるのではないかと疑うほどに、草臥れた寺院だ。
私は隅に座っていた祖母に話しかける。しかし、私の顔を覚えていないらしい。どちら様のご子息ですか、と逆に聞かれてしまった。
祖母は祖父が逝去してから、急な坂を転げ落ちるように耄碌が進んでいる。齢は九十を超え、独りで歩くことすらままならない。
ほんの数年前まで、祖父と祖母は二人で気丈に生活していた。人間はいつかは死ぬものであるが、なんだか奇妙な気分になった。
私の胸の裡にある祖父、祖母は未だに快活な姿を私に披露してくれる。時は無常に流れてゆくが、胸中の時間は過ぎ去らないようである。
親戚一同が集まるとすぐに、和尚の読経が始まった。
和尚の響く声色と、木魚の一定の拍子が寺院全体に行き渡る。
粛然たる雰囲気の中。いつもは剽軽な叔父が、瞼を拭って*落涙滂沱していたのが印象的だった。
*縹緲 果てしなく、広々としたさま
*大廈高層 正しくは大廈高楼と使う。大きく高い建物のことを指す。ビルのことを言いたかったのですが、古典調に纏めたかったので大廈高層にしました。同様の表現を小説で見かけたので使用。
*落涙滂沱 落涙=涙をこぼすこと。 滂沱=涙や雨が止めどもなく流れるさま。
我が胸の奥の底には
師走の木枯らしが吹き抜ける寒さが、肌に凍みる。
茫漠とした気持ちで、私は寂れた路地を歩いていた。
冬は陽が傾くのが早い。一日が、夏場よりも短くなったような気がする。
私の襤褸のコートを何年も使いまわし、裾には穴が空いていた。ジーンズも、毎度同じものを着用している。いわゆる出不精だ。
もはや歳は二十代の半ばを過ぎ、もうすぐ三十路に差し掛かろうとしていた。世間的にいえばそろそろ妻帯し、会社でもまあまあな役職に就いている年頃だろう。
私はそういった、一般的な路線から逸脱していた。
不甲斐ない、だらけきった大人だと嘲笑されても仕方がないだろう。
しかし、世の中の凄まじい勢いで荒れ狂う奔流から逃れていると、今さら社会に溶け込めるのか自信がなくなってくるものだ。
私は、幼少の頃から集団に属するのが苦痛だった。
だが、これは正確ではないかもしれない。もっとpoliteに言えば、集団の中心にいることができない性分だった。できるだけ、人目のつかない端のほうに端座していたかった。
大きな流れに呼応するのが怖かったのかも知れない。物心ついた頃から斯のような童だったので、三つ子の魂百までと云うように、依然としてその性分は私に引き継がれている。
漠々とした漆黒の暗闇を、呆けたようにあてもなく彷徨う。
それが私の姿だった。
※ブログを投稿しようとしても、小説でも一筆書いてみようかも思っても、全然頭が回転しないので、思うがままに執筆してみました。
機会があったら、今度は旧かなづかいで書いてみたいです。
基本的に、自分は長文を連ねることができないやうです。
なので短文投稿します。
平気で数千文字書く人が羨ましいです(´;ω;`)
折り紙
小さい頃、結構ユニット折り紙が好きだったのですが、最近暇になってまた折り初めています。
読書や勉強は、こまめに休憩しないと出来ないのですが、折り紙は不思議とあまり休憩せずともできるのですよね。
今日は折り紙と、現代日本の文学「石川淳」を読んだら一日が終わっていました。行政書士の勉強はあまり進んでいません……どうにも右手の調子が悪く、あまりノートが作れなかったのも原因の一因か。
現代日本の文学は現在44冊目で、あと16巻読めばシリーズ全てが読み終えられます。まだまだ道のりは長いですね。
全集読みなんて、なかなか古典的なことを趣味にしている僕ですが、色々と考えさせられることはありますし、今の日本人って色々なことを忘れ去っているのだなぁと思う次第です。
過去を知れば、今の世の中がわかる部分もあると思うのですよね。まぁ、僕みたいな暇な人間でないとやらないでしょうし、需要は微妙なところでしょうが、全集読みって結構楽しいですよ。
個人的な話になっちゃいますけどねー
勉強の合間に
折り紙折ってます。
大人になってからは、あまり複雑なものは折らなくなりましたが、配色を考えるだけで結構楽しめます。
暇があるって本当にいいですね。
↑携帯からの画像を載せると、なんでだか横向きになってしまうのですよね。
あーあ。
本当に人生どうしよっかなー
悲しき元SWMGR
こうやってブログを作ってみたのの、更新頻度はかなり低い。
ブログを書くのであれば、他のことをしてしまう。
最近は、行政書士に興味を持っているのでそちらの勉強をしたり、趣味の文学全集を読んでいるとあっという間に時間がとられてしまう。
現状無職なのですが、やることは案外ありますね。
そんな感じで今日は、以前働いていたお店にユニフォームを返却しに行きました。
・・・・・しかし、クルールームに入ったとたん店長に「今忙しいから、用事なら後にして!」
と言われ、なんだかなあ・・・・な気持ちで返してきました。
「今元気にしてる?」
・・・・とか、一言あってもいいようなところだったのになあ。辞めて正解だったのかも。長年仕事してきた人間に言うセリフではないわな。それだけ余裕がないのだろう。
うち店長は、冗談抜きで寝る暇もなく仕事をしていらっしゃる。他の店舗がどうなのかは知らないが、うちのフランチャイズは結構待遇が厳しい。月に休みが実質四日あればいいほうだと言っていたかな。お店が開店してから閉店までいることも結構あるし、正真正銘のブラック店舗だろう。
かくいう私も散々な目にあってきたので、先月辞めてきたのだが、うちの店舗然り。マクドナルドは待遇の厳しい店舗が多い気がする。
八年働いてきたので思い残すことも多いが、私ももう年齢が年齢(二十後半)だし、うちの店舗は環境が悪いせいか、人間関係も煩雑なことが増えてきて心理的にも大変だった。
はあああ・・・・・なんだか最後の最後で後味が悪いけど、早くほかの仕事探したほうがいいよなあ。
↑サービス業に関して書かれている部分がありました。
日本社会の生きづらさというものが見えてくるかとおもいます。
・・・・コスパ至上主義もとい、いくら仕事して努力しても、どうにもならない怒りが日本に渦巻いている。
植松聖について知りたい方にもオススメ。
あの人は私と同じ教育学部卒だし、同じの年代なのでなんとなくですが、気になる存在でした。
共生舎に行ってきました
共生舎に行ってきました♪
かなり久しぶりにブログを更新するので、なんだかまとまりのないものになりそうです。
・・・・且つ、あんまり説明が上手な人間ではないので、どうなることやら。
共生舎に行こうと思ったきっかけ
今月いろいろとあって無職になりました。最近は殆ど寝るか仕事するかの生活だったし(とはいいつつも休みはありました苦笑)人間関係の煩わしさもあり、店長に怒られ怒られ辞めてきました。
以前から、ツイッターやブログで共生舎という場所があるのは知っていたので、暇をもらったので今回行ってきました。
・・・・田舎で家賃なしで生活できるってなかなかそうない話ですし、なによりも時間があるのが魅力的。僕の所持している大量の書籍群を読みながら生活するのもいいし、畑やるのも面白そうだなーなんて勝手なことを想像していました。
とんでもなくド田舎
自分は神奈川在住なので、神奈川近辺の田舎しか想像できないのですよね。せいぜい清川村とか山北あたりの田舎でしょうか?
・・・・そんなレベルではないのですよね。
和歌山の紀伊田辺からバスで向かうのですが、共生舎のある五味までいくバスは一日に二本しかありません。且つ、途中から予約制の住民バスを使用しなくてはなりません。
・・・・そちらも確か一日二本だけだったかと思います。しかも、住民バスを使ってから五味まで行くのに一時間は山道を走らなければなりません。
僕が行ったときは運悪く台風が直撃してくるようなときでしたが、もしもこれから共生舎に行きたい方がいるのであれば、そういう日は行かないほうがいいと思います。
山道が土砂で塞がることだってあり得ますし、道路が冠水して通れなくなる可能性もあるのですよね。自分がいったときも岩が落ちていたり、大きな枝があったりと、正直に言って危険でした。
・・・・・住民バスの運転手さんには迷惑をかけたかもなぁ、すんごい世間知らずなタイミングで来ちゃったと思います。道は細いしすぐ横は崖だし、自分だったらこういう山道は走れないですねー。気づいたら崖の下にダムに落ちていると思います。
こういう秘境に行ってみますと、車が動いているだけで物凄く有難みを感じますね。
↑画像だと分かりにくいかもしれませんが、とんでもなく大雨でした。
全く変わり映えしない山道を一時間以上走ったのちに、五味の集落が見えてきます。人口はたしか11人(共生舎のニートを含めないで)の限界集落です。
コンビニなんてものはどこにもないし、ましてや売店も自販機もないです。あるのは見渡す限りの山と川・・・・(と寄り添うように建つ家←基本的に廃屋っぽいです)
携帯電話はsoftbank以外通じないらしいです。自分はauだったので駄目になりました。
共生舎の様子
田舎で集団生活をしているということなので。皆さん外に出て畑を耕していたり、生活に関する規則が細かく規定されていたりするのかと思っていたのですが、共生舎に住んでいる方々は非常に自由に生活していらっしゃいました。
都会に比べれば全く不便なところですが、時間は有意義に使えそうです。山奥ニートと呼ばれるだけあってか、皆さんアニメを観たり、ゲームをしたり、漫画を読んだりと思い思いのことをなされていました。畑仕事をしたり、田舎生活を満喫しているような感じではあんまりないですね。狩猟とかはしているみたいですけど。
こちらに住んでいる人の話を聞いたところによると、物はないし、水道は止まるし、停電することもよくあるけれども、ここでの生活はストレスがなくていいと仰っていました。
コンビニも飲食店も娯楽施設もなくとも、人間ってそれなりに暮らせるんですよね。僕はそういうものに慣れ切っているので、なんだか不思議な感じです。ネットにさえ繋がっていれば通販もできるし、なんだかんだでやっていけるそうです。
感想
共生舎のある五味という集落は、信じられないような田舎でした。正直に言えば「よくこんなところに人が住んでいるよなあ」という印象でしょうか。僕は田舎暮らしにあこがれて行ってみたのですが、いろんなことを考えさせられます。
現状の日本において、多くの人がやりたいと思えるような生活ではないと思いますが。本当に何もない田舎という場所と、ニートという生活形態が互いにうまくマッチングして、今の共生舎が出来上がったような気が致します。
もちろん、田舎に出て積極的に活動を行ってみるのもアリなのでしょうが。共生舎の雰囲気は老荘思想な感じです。活発になにかをしたい人よりも、田舎でゆっくりしたい人には向いているのではないでしょうか。
・・・しかし、残念なことに今は空いている部屋が無いそうです。
僕は人の目を気にしてしまう性分なので、十数人が共同生活をしている共生舎で生活するのはちょっと厳しそうです。僕は孤独気質なので、離れとかでひっそりと暮らしたいかなあ。
ただ、そんなことをしていると、影が薄いのでそのうち忘れ去られるかも知れないですね(苦笑)
うちにある大量の本と、それを読むことができる膨大な時間が欲しいです。
↑共生舎の近くにある石碑
↑五味の集落には石像がよくありました。今は限界集落でも、昔は多くの人が居住していたのかも知れません。
↑その他諸々の画像
五味の集落にはシキミの木が多かったです。
ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法
- 作者: pha
- 出版社/メーカー: 技術評論社
- 発売日: 2012/08/03
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 16人 クリック: 1,642回
- この商品を含むブログ (102件) を見る
↑共生舎においてあったphaさんの本です。
これを読むまでは、漠然と仕事してないで生活している人だとしか思っていなかったのですが、なかなか面白かったです。
世の中に生きづらさを感じている人は、是非読んでみてはいかがでしょうか?
現代日本の文学47その2~芽むしり仔撃ち~
現代日本の文学47その2
現代日本の文学 (47) 安部公房・大江健三郎集 けものたちは故郷をめざす 魔法のチョーク 他
- 作者: 安部公房,大江健三郎,足立巻一,伊藤整
- 出版社/メーカー: 学研
- 発売日: 1978
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
今更ながらではあるが、全集に掲載されている作品全部に関しての感想を書くのはなかなか厳しそうだ。以前私は阿部公房氏の作品で「けものたちは故郷をめざず」の感想を書いたのだが、とりあえず次は大江健三郎氏の「芽むしり 仔撃ち」について話したいと思う。
ちなみに、阿部公房氏の作品で、「闖入者」は個人的に気に入っているので、オススメする。ちょっと時間があったら、他の作品についても感想を書きたいところ。
「芽むしり 子撃ち」この作品は、戦時中に感化院(今で言えば少年院)に収容されていた子供たちが、護送の途中で、疫病が発生して隔離された村に閉じ込められる話である。
近現代以前の日本では、人の死というものが身近にあった。・・・・・むしろ、今私達が生きている社会は、異様なまでに死というものに切り離されて成り立っている。いつ、自分が死ぬのかわからない状況というのは、全くもって理解しがたいし、未知の領域である。
「そして夜更けに長い間苦しんでいた仲間が死んだ。そのとき、僕らは不意に目覚めた。それは激しい音や突然の存在感に刺激されたというよりも、そのまったく逆の原因によるものだった。僕らの浅い眠りの群がりのなかで、一つのひそかな音が消え、一つの存在が失われた。そういう奇妙な異質の感じが僕らを一様にとらえた」
あっけない。そうとしか言いようのないものだ。大江健三郎氏は人の死に立ち会ったことのある人間なのだろう。一人の人間がこの世から消えても、何事もなかったかのように世界は動くのである。
しかし、この物語で主題をなすものは「人間の死」ではなく、農村に暮らす人間の閉鎖性だろう。疎開してきた子供たちに接する態度は、人間のものではなく、動物を扱うような冷酷なものだ。現代的な倫理が通用する世界ではなく、原始的で粗野な、多数者が少数者に転落した人間を抑圧する世界だ。
父親の弔いをしていた少年。疫病に罹った母親を持つ少女。そして感化院の少年たち・・・・・。
彼らは、決して通りぬけることのできない、村人の偽善の壁に屈服することになる。
もしも、この壁を乗り越えようとするならば・・・・?
われわれも、多くの壁によって屈服されているのは同じだと思うこのごろ。
われわれ人間は多かれ少なかれ、内的自己と外的自己・・・・本音と建前、内面とペルソナ使いわけて生きている。もしも、心の底の本音である、内的自己を貫き通そうとするならば、どういう状況に見舞われるのだろうか?
ほか飼育。不意の唖、後退青年研究所、アトミック・エイジの守護神。
これらはどれも戦争を扱った作品で、人間の根源的で拭うことのできない弱さといものを、表現した作品群だった。